加藤北
2014/07/15 Tue 07:00
今日のふるさとの窓はこちらです。
ここはどこかお分りでしょうか?
ここは、厚狭小学校グランド沿いのフェンスと、傍の水路に挟まれた道。

左右に走る道路が昔から加藤小路と言われていた道です。
旧国道2号線が無かった頃は、この道は街道から続く脇道として街道筋と同じく賑やかだった通りだったはずです。
「厚狭の市」はこのあたりまで続いてあったようです。
右に行くと、茅壁醤油店の白壁の醤油蔵や店が今でも残っています。
先日、画家の方が厚狭に来られて何か絵になる建物を探しておられたので そこをお勧めしました。
こちらにも書いています。http://iimati2.blog101.fc2.com/blog-entry-391.html
厚狭川が氾濫した2010年7月15日の朝、撮ったのですが、出すチャンがなくて、ずっと眠っていた画像です。
小学校のグランドは一面浸かりました。商店街の被害とは雲泥の差はありますが驚きました。


加藤公会堂前あたりは、水が腰までの深さで通り抜けができないほどでした。
公会堂に保管してあった黄幡様の神輿の道具類がこの時、浸かりダメになったのです。
一番上の写真の左右に走る加藤小路の道路の中央線の高くなった部分ギリギリまで
一面水が押し寄せていました。
こんなに詳しいのは・・実は当時 ここに住んでいたからです。
(もう今は住んでないから・・言えます)
良い近隣に恵まれたから厚狭が好きになり 何か恩返し・・と、このブログに繋がったのです。
当時を思い出して不快感を覚える方もいらっしゃるかもしれませんが、
今日はあの時出せなかった写真を、4年経って、立ち直った今だから出してみました。
13日の日曜日に放映だった「前川清の笑顔まんてんタビ好き」でも商店街のお店で
「どこまで水がきた?」と水害のことを尋ねていました。
4年経った今は、どなたもカラッと笑って答えておられました。”タビ好き”はこちらで書いています。
どこにでもある風景だけど
ここが故郷の人には ここは思い出の場所
このブログは“ふるさとへの窓” (山陽小野田市 厚狭)
厚狭の景色を画像で残しておきたい
そんな気持ちで黙って撮った画像の数々 どうぞご容赦を!
ご協力があればこそ!お陰様でこのブログが続けられます。
もしご都合悪ければ、お知らせ頂ければ削除致します
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ここは、厚狭小学校グランド沿いのフェンスと、傍の水路に挟まれた道。

左右に走る道路が昔から加藤小路と言われていた道です。
旧国道2号線が無かった頃は、この道は街道から続く脇道として街道筋と同じく賑やかだった通りだったはずです。
「厚狭の市」はこのあたりまで続いてあったようです。
右に行くと、茅壁醤油店の白壁の醤油蔵や店が今でも残っています。
先日、画家の方が厚狭に来られて何か絵になる建物を探しておられたので そこをお勧めしました。
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厚狭川が氾濫した2010年7月15日の朝、撮ったのですが、出すチャンがなくて、ずっと眠っていた画像です。
小学校のグランドは一面浸かりました。商店街の被害とは雲泥の差はありますが驚きました。


加藤公会堂前あたりは、水が腰までの深さで通り抜けができないほどでした。
公会堂に保管してあった黄幡様の神輿の道具類がこの時、浸かりダメになったのです。
一番上の写真の左右に走る加藤小路の道路の中央線の高くなった部分ギリギリまで
一面水が押し寄せていました。
こんなに詳しいのは・・実は当時 ここに住んでいたからです。
(もう今は住んでないから・・言えます)
良い近隣に恵まれたから厚狭が好きになり 何か恩返し・・と、このブログに繋がったのです。
当時を思い出して不快感を覚える方もいらっしゃるかもしれませんが、
今日はあの時出せなかった写真を、4年経って、立ち直った今だから出してみました。
13日の日曜日に放映だった「前川清の笑顔まんてんタビ好き」でも商店街のお店で
「どこまで水がきた?」と水害のことを尋ねていました。
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殿町から一直線
2014/07/08 Tue 06:00
今日のふるさとの窓はこちらです。
今日は借り物の写真でなく、先日このあたりを散策したときに撮ったものです。

殿町は厚狭毛利家の本拠地、こうしてまっすぐ見ると・・突き当りは大福寺。
昔は街道筋に大福寺の門柱があったそうで、その先は門前町だったことは、私は想像しながら見ていましたが
間違いないということが分かりました。
町のいろんなところを自転車で走り、石碑や神社仏閣などに出会うと、昔の時代に立ち戻り
妄想するのが面白いです。
どこにでもある風景だけど
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殿町は厚狭毛利家の本拠地、こうしてまっすぐ見ると・・突き当りは大福寺。
昔は街道筋に大福寺の門柱があったそうで、その先は門前町だったことは、私は想像しながら見ていましたが
間違いないということが分かりました。
町のいろんなところを自転車で走り、石碑や神社仏閣などに出会うと、昔の時代に立ち戻り
妄想するのが面白いです。
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殿町の路地
2014/06/05 Thu 07:00
今日も殿町です。
初めてこのブログに来られた方のために書いておきますが、
昔 厚狭毛利家の居宅があった場所なので町という名がついたという由緒ある場所。
市外から厚狭毛利家の居館跡地を見に来られる方もいらっしゃると聞いたことがあります。
少し奥の右側に見えるのは確か枝村家の墓地?、ということは
簡易水道の給水塔があった場所に出る道のはずですが・・給水塔は今はもうありません。

ここがかつては、厚狭村と郡(こおり)村が合併し厚西村になった境界にあたる場所です。
つまり右が厚狭村、左が郡村だった。
以前こちらに書いています。
どこにでもある風景だけど
ここが故郷の人には ここは思い出の場所
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昔 厚狭毛利家の居宅があった場所なので町という名がついたという由緒ある場所。
市外から厚狭毛利家の居館跡地を見に来られる方もいらっしゃると聞いたことがあります。
少し奥の右側に見えるのは確か枝村家の墓地?、ということは
簡易水道の給水塔があった場所に出る道のはずですが・・給水塔は今はもうありません。

ここがかつては、厚狭村と郡(こおり)村が合併し厚西村になった境界にあたる場所です。
つまり右が厚狭村、左が郡村だった。
以前こちらに書いています。
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もりなが永松陰堂の昔の包装紙
2014/05/13 Tue 07:00
山陽街道32 福田へ抜ける道
2013/03/28 Thu 07:00
街道シリーズは今日で最後です。
石炭跨線橋を渡り下関方面を見て撮りました。

旅人はここから福田を目指して進んだでしょう・・。
この先がこんな道がずっと続くのだろうと思いつつ、今回の街道追跡はここでおしまいとしました。

長い街道シリーズ、お付き合いありがとうございました。
厚狭を通る山陽街道、いかがでしたでしょうか?。
厚狭に越してきたときは、街道の存在すら知らなかったのですよ。
今はこのブログで厚狭を通る街道の道筋を紹介することを誇らしく思います。
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石炭跨線橋を渡り下関方面を見て撮りました。

旅人はここから福田を目指して進んだでしょう・・。
この先がこんな道がずっと続くのだろうと思いつつ、今回の街道追跡はここでおしまいとしました。

長い街道シリーズ、お付き合いありがとうございました。
厚狭を通る山陽街道、いかがでしたでしょうか?。
厚狭に越してきたときは、街道の存在すら知らなかったのですよ。
今はこのブログで厚狭を通る街道の道筋を紹介することを誇らしく思います。
山陽街道31 跨線橋を渡って
2013/03/27 Wed 07:00
今日のふるさとの窓はこちらです。
石炭跨線橋を渡ってすぐ左の道は
石炭踏切に行く前に分かれていた左の道とここが繋がっています。
一見すると 開けた道のように見えますが、実は山道で急坂のすごい道です。

この道、鉄道ができる前はどうなってたのか分かりませんが、ともかくここで合流となりました。
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石炭跨線橋を渡ってすぐ左の道は
石炭踏切に行く前に分かれていた左の道とここが繋がっています。
一見すると 開けた道のように見えますが、実は山道で急坂のすごい道です。

この道、鉄道ができる前はどうなってたのか分かりませんが、ともかくここで合流となりました。
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山陽街道30
2013/03/26 Tue 06:53
街道を進みます。
石炭跨線橋に近づきました。

電車が通過していきました。

このシリーズはあとちょっとで終わるのですが・・
そのあと、どうしましょう。
何も準備していません。
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石炭跨線橋に近づきました。

電車が通過していきました。

このシリーズはあとちょっとで終わるのですが・・
そのあと、どうしましょう。
何も準備していません。
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山陽街道29 石炭跨線橋
2013/03/24 Sun 07:00
街道シリーズはまだ続きます。
以前は石炭の踏切でUターンして帰ってきたのですが、
せっかく来たのだから・・前と同じは嫌なので、1歩でもまだ行ってない道を目指します。
踏切の方を向いてこの写真を撮ってから、先へと進みます。

今回は集落の方の写真は撮っていません。
その先に新しい橋がありました。

石炭跨線橋

下は山陽本線が走っています。
嬉しいニュースです。
宇部日報より
JR美祢線に「寝太郎」車両登場
31日と4月1日の2日間走り 後は・・・様子見でしょうか?
画像は宇部日報よりお借りしました。
どこにでもある風景だけど
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以前は石炭の踏切でUターンして帰ってきたのですが、
せっかく来たのだから・・前と同じは嫌なので、1歩でもまだ行ってない道を目指します。
踏切の方を向いてこの写真を撮ってから、先へと進みます。

今回は集落の方の写真は撮っていません。
その先に新しい橋がありました。

石炭跨線橋

下は山陽本線が走っています。
嬉しいニュースです。
宇部日報より
JR美祢線に「寝太郎」車両登場
31日と4月1日の2日間走り 後は・・・様子見でしょうか?
画像は宇部日報よりお借りしました。どこにでもある風景だけど
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山陽街道28 石炭(いしずみ)踏切
2013/03/23 Sat 07:00
今日のふるさとの窓はこちらです。
道が分かれています。
少し先でこの二つの道は又合流しますが、左は急な坂道で山道ですから、
石炭の集落を通ることにして右へ進みます。

右の道の先は下り坂。
その坂道から振り向いて撮っています。

石炭(いしずみ)の踏切です。

昔は線路がなかったので道は変わっただろうと思いながら踏切を渡ります。
昨日の写真で遠くに見えたピラミッドのような山のことで・・・
出合っ子さんにお返事を書いた後で、もう一度位置を調べてみました。
石炭の集落の向こう側に山が見えたので位置的に下の地図の左上の赤い矢印、
下を新幹線が通っている160mほどの山ではないかと思われます。

右下のオレンジのマークは石炭の踏切です。
手前側に100m級の小山がたくさんあるため、160mの山はてっぺんくらいしか見えないのでは
ないでしょうか?。
それでわからない・・のではないかと推測しました。
もう一度現地に行けば検証できるのですが、今住んでる場所からここまではもう行けそうもありません。
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少し先でこの二つの道は又合流しますが、左は急な坂道で山道ですから、
石炭の集落を通ることにして右へ進みます。

右の道の先は下り坂。
その坂道から振り向いて撮っています。

石炭(いしずみ)の踏切です。

昔は線路がなかったので道は変わっただろうと思いながら踏切を渡ります。
昨日の写真で遠くに見えたピラミッドのような山のことで・・・
出合っ子さんにお返事を書いた後で、もう一度位置を調べてみました。
石炭の集落の向こう側に山が見えたので位置的に下の地図の左上の赤い矢印、
下を新幹線が通っている160mほどの山ではないかと思われます。

右下のオレンジのマークは石炭の踏切です。
手前側に100m級の小山がたくさんあるため、160mの山はてっぺんくらいしか見えないのでは
ないでしょうか?。
それでわからない・・のではないかと推測しました。
もう一度現地に行けば検証できるのですが、今住んでる場所からここまではもう行けそうもありません。
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山陽街道27
2013/03/22 Fri 07:00
今日のふるさとの窓はこちらです。
山陽本線沿いの道を進むと石炭(いしずみ)の集落が見えてきました。

この写真を見て、正面にピラミッドのような山があるのに気が付きました。
ただの たいして高くない山なのに・・・そう思うのは普段の妄想の結果かと・・・。
ここで最近のコメントをご紹介しますね。
<出合っ子さん>のコメントに書かれていましたが・・・
この道は電車の窓から見た方が良いようで、電車に乗った時はそういうことも
気が付かなかったので、今度はこの場所をよく見てみようと思います。
もう一つ<元厚狭の住人さん>が書いてお知らせくださったことですが・・
コメント欄ではその思い出を語られていますが・・本文に書いておきます。
寝太郎餅のお店が今月末で100年の歴史ある店を閉じられるそうです。
もう一つ『八重の桜』で、来嶋又兵衛が出てたと書いたことへの返信で
まさちゃんさんが教えてくださった「白虎隊の生き残り飯沼貞吉が美祢に住んでいた」ということ
興味が湧いたのでちょっと調べてみました。
飯沼貞吉は年齢を偽って白虎隊に入隊、最後に皆と一緒に自害するも生存。
長州藩の捕虜となり美祢市に連れてこられ長州藩士楢崎頼三の書生として2年間を暮らしたということです。
会津の人は今でも長州が嫌いな人が多いそうで・・だから、
あまり大きな声で言えなかったので、この事は長い間知られることはなかったのでしょう。
参考
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121223-00000022-fminpo-l07
『八重の桜』のドラマの中で名前が出てきた来嶋又兵衛は山陽小野田市の生まれ。
美祢の来嶋家の養子になったのでした。
禁門の変では赤川の岡崎熊吉が戦死しています。
奥の浴の蔵田幾之進は禁門の変ではないけれど、長州藩士として戦死しています。
この蔵田家の家を見ながら滑って転んで、
実はあの後遺症で掌の小さな骨が2か所、出っ張ったまま固まってしまっています。
・・それはおいといて
あの時代に生涯を閉じた長州藩士が厚狭に居たということが分かっただけでも
このブログを開設して良かったと思います。
ブログが無かったら、その人達のことを知ることも叶わなかったでしょうから。
どういう巡り合わせか?
時間をかけて調べていることに不思議なご縁を感じます。
どこにでもある風景だけど
ここが故郷の人には ここは思い出の場所
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この写真を見て、正面にピラミッドのような山があるのに気が付きました。
ただの たいして高くない山なのに・・・そう思うのは普段の妄想の結果かと・・・。
ここで最近のコメントをご紹介しますね。
<出合っ子さん>のコメントに書かれていましたが・・・
この道は電車の窓から見た方が良いようで、電車に乗った時はそういうことも
気が付かなかったので、今度はこの場所をよく見てみようと思います。
もう一つ<元厚狭の住人さん>が書いてお知らせくださったことですが・・
コメント欄ではその思い出を語られていますが・・本文に書いておきます。
寝太郎餅のお店が今月末で100年の歴史ある店を閉じられるそうです。
もう一つ『八重の桜』で、来嶋又兵衛が出てたと書いたことへの返信で
まさちゃんさんが教えてくださった「白虎隊の生き残り飯沼貞吉が美祢に住んでいた」ということ
興味が湧いたのでちょっと調べてみました。
飯沼貞吉は年齢を偽って白虎隊に入隊、最後に皆と一緒に自害するも生存。
長州藩の捕虜となり美祢市に連れてこられ長州藩士楢崎頼三の書生として2年間を暮らしたということです。
会津の人は今でも長州が嫌いな人が多いそうで・・だから、
あまり大きな声で言えなかったので、この事は長い間知られることはなかったのでしょう。
参考
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121223-00000022-fminpo-l07
『八重の桜』のドラマの中で名前が出てきた来嶋又兵衛は山陽小野田市の生まれ。
美祢の来嶋家の養子になったのでした。
禁門の変では赤川の岡崎熊吉が戦死しています。
奥の浴の蔵田幾之進は禁門の変ではないけれど、長州藩士として戦死しています。
この蔵田家の家を見ながら滑って転んで、
実はあの後遺症で掌の小さな骨が2か所、出っ張ったまま固まってしまっています。
・・それはおいといて
あの時代に生涯を閉じた長州藩士が厚狭に居たということが分かっただけでも
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ブログが無かったら、その人達のことを知ることも叶わなかったでしょうから。
どういう巡り合わせか?
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