D51300お披露目のお知らせ
2014/11/28 Fri 07:00

すでに新聞、テレビの報道で ご存知だと思いますが、
鉄道ファンの間で、西日本で一番可哀相なSLとして有名だった厚狭殿町児童公園のD51300が、このほど関東、中部、九州、四国などから全国のSLの匠、並びに鉄道ファンが手弁当で厚狭に結集。
市で見積もった時、工事の費用は1000万円ということでしたが、厚狭小学校、殿町自治会、厚狭の町の方々、その他の協力者の皆さん、杜のまちメンバーなど大勢の方々の協力により、見事に蘇りました。

画像は「we love D51300 ~殿町公園のデゴイチ応援隊」よりお借りしました。
その時、集まった募金で注文した、正面のナンバープレートがこのほど到着。
(現在は仮のナンバープレートが取り付けられています)
他の3箇所用(運転席左右と後部)の3枚は、厚狭小5年生各クラスが、木製プレートを制作、
計4枚をこの日、設置し、お披露目となります。
プレートの現物を是非、ご覧になってください。
D51300 ナンバープレート設置セレモニー
日時、平成26年12月14日(日) 9時~ 於 殿町児童公園
(少雨決行)、荒天の場合、12月21日(日)へ順延
設置完了後、前照灯点灯、SL走行音再生
汽笛吹鳴体験、記念撮影、殿町自治会提供の餅まき、ぜんざいのおもてなしなど予定しています。
・・・・・・・・・・・・
当日もSLの匠をはじめ、鉄道ファンの方が、遠方から再び厚狭にやってこられます。

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ゆかりの人びと
2014/11/25 Tue 07:00
先日ここに載せました「ゆかりの人びと」山陽町厚狭の町の本。
この本の出版時、厚狭では不買運動が起きたそうですが、今となっては昔の厚狭の暮らしを知るのに、
恰好の教科書。
実は、シンプルライフを目指していて、モノは増やさない!と決めていたのですが・・。
これだけはどうしても欲しかったのです。
数年前からあちこちの古書サイトで探していたのですが、なかなか見つからなくて、諦めかけていました。
先日このブログで紹介した後、念のため再度検索!・・・その時もあちこち巡って探し回り、
遂に見つかりました。

本の表紙にハトロン紙がかかっています。
このたび届いたものは、かなり日に焼けていましたが、なんと!挟み込んであったのが
「謹呈~水澤耶奈」のカード、 名前が手書きです。
巡り巡って私の元に届いたこの本は、著者の水沢耶奈さんから、プレゼントを頂いたようなそんな気がして
ここで紹介したくなりました。
今や山陽町史と共に、手放せないものとなっています。
←応援お願いします
この本の出版時、厚狭では不買運動が起きたそうですが、今となっては昔の厚狭の暮らしを知るのに、
恰好の教科書。
実は、シンプルライフを目指していて、モノは増やさない!と決めていたのですが・・。
これだけはどうしても欲しかったのです。
数年前からあちこちの古書サイトで探していたのですが、なかなか見つからなくて、諦めかけていました。
先日このブログで紹介した後、念のため再度検索!・・・その時もあちこち巡って探し回り、
遂に見つかりました。

本の表紙にハトロン紙がかかっています。
このたび届いたものは、かなり日に焼けていましたが、なんと!挟み込んであったのが
「謹呈~水澤耶奈」のカード、 名前が手書きです。
巡り巡って私の元に届いたこの本は、著者の水沢耶奈さんから、プレゼントを頂いたようなそんな気がして
ここで紹介したくなりました。
今や山陽町史と共に、手放せないものとなっています。

ラストスパート
2014/11/22 Sat 07:00
今日は風景写真でなく、新聞ネタから。
殿町児童公園のD51300の仕上げもラストスパートに入っています。
昨日の宇部日報の記事。

詳しい内容は宇部日報サイトでご覧ください
産経新聞記事はこちら
山口新聞にも載りました。
お披露目式(12/14)はもうすぐです。
厚狭小5年生(99人)の皆さん、頑張ってください!。
←応援お願いします
殿町児童公園のD51300の仕上げもラストスパートに入っています。
昨日の宇部日報の記事。

詳しい内容は宇部日報サイトでご覧ください
産経新聞記事はこちら
山口新聞にも載りました。
お披露目式(12/14)はもうすぐです。
厚狭小5年生(99人)の皆さん、頑張ってください!。

名残の公衆電話ボックス
2014/11/21 Fri 07:00
今日のふるさとの窓はこちらです。
丹後屋さんから元バス道りだった道を南に進むと見えてきます。

ここは国鉄厚狭機関区や農協や役場があったところ、転車台も近くにあったけれど、それらはもう今はありません。
賑やかだった昔の名残はこの電話ボックスだけ。
昭和のたたずまいの残る町の中に、電話ボックスがポツンと残してあるっていうのが、
粋な計らいのように見えます。
この計らいが、白壁の建物保存や、旧図書館や鉄道遺産に向かっていたら
今の厚狭はどんなにか、多くの人を迎えられる町になっていたことでしょう。
どこにでもある風景だけど
ここが故郷の人には ここは思い出の場所
このブログは“ふるさとへの窓” (山陽小野田市 厚狭)
厚狭の景色を画像で残しておきたい
そんな気持ちで黙って撮った画像の数々 どうぞご容赦を!
ご協力があればこそ!お陰様でこのブログが続けられます。
もしご都合悪ければ、お知らせ頂ければ削除致します
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丹後屋さんから元バス道りだった道を南に進むと見えてきます。

ここは国鉄厚狭機関区や農協や役場があったところ、転車台も近くにあったけれど、それらはもう今はありません。
賑やかだった昔の名残はこの電話ボックスだけ。
昭和のたたずまいの残る町の中に、電話ボックスがポツンと残してあるっていうのが、
粋な計らいのように見えます。
この計らいが、白壁の建物保存や、旧図書館や鉄道遺産に向かっていたら
今の厚狭はどんなにか、多くの人を迎えられる町になっていたことでしょう。
どこにでもある風景だけど
ここが故郷の人には ここは思い出の場所
このブログは“ふるさとへの窓” (山陽小野田市 厚狭)
厚狭の景色を画像で残しておきたい
そんな気持ちで黙って撮った画像の数々 どうぞご容赦を!
ご協力があればこそ!お陰様でこのブログが続けられます。
もしご都合悪ければ、お知らせ頂ければ削除致します


裸坊今昔~「ゆかりの人々」より
2014/11/17 Mon 07:00
昔の裸坊のことが厚狭出身の水沢耶奈著 「ゆかりの人々」に書いてあります。
今日は、その本の中に書いてある厚狭の町の様子の中から「裸坊」のことをご紹介します。

文中より一部分を抜粋。
「夜になると裸坊が出る。
十時の御神幸を守る男たちであるが、真っ白の上下のさらしをぐるぐる腹に巻いて、鉢巻をしている。
この連中が夕方から三人、五人、ワッショイワッショイと町に現れる。
近在近郷の若者たちに、よその町からわざわざ汽車に乗ってやってくる若者たちも交じって、暗くなるにつれて町はかけまわる白い男たちでいっぱいになるのだ。」(中略)

「鴨神社から下りてくる、この御神幸が祭りのヤマであり、人々はみな立ち出でて、柏手を打ってこの”おあじろ”を拝むのであったがこれがなかなか無事では済まないのであった。」
とあります。そういえばこのたびもこのお網代に手を合わせる方がいらっしゃいました。
[広告] VPS
「この”おあじろ”昔は毎年打ちこわしをねらう目当ての店があり、それは大抵町の有力者や分限者と言われる家であった。
その家では出入りの者たちを裸坊にして 防衛にあたらせる。(中略)肉弾相打つ攻防が繰り広げられた。」
あちこち狙われた店は大変!ということで、裸坊取りやめの話が浮上。
「厚狭の名物の裸坊が取りやめとなると、そこは若者が黙ってない。
そんな折、「若いもんがあれだけやりたがっているのにそれを聞いてやらんと、不満が残っておさまりがつかんようになる」
「裸坊が名物で厚狭の天神が有名なのに、それをやめさせて祭りを寂れさせては、町の商工業発展のためにならんことになる」。
「絶対に悪さをさせん、”おあじろ”を突っ込むことはさせんから裸坊を出してくれ」
そういうわけで、それからの裸坊は今のおとなしい形になったということですが、
「やはり少しは気がもめないと面白くないものだ」とみんなが言ったそうです。
”だんじり”のように荒れ狂う裸坊を、一度で良いから見てみたいような気がします。(おっと、これは禁句でした)
以上で2014年の裸坊の記事は終わりです。
「ゆかりの人々」は厚狭図書館に置いてあります。
著者経歴
水沢耶奈(旧姓佐々木)
1905年(明治38年)山口県厚狭郡厚狭にに生まれる
1922年(大正11年)県立厚狭高等学校卒業
1926年 日本女子大学校国文科卒業
1928年(昭和3年) 水沢澄夫(美術評論家)と結婚
1947年 婦人民主クラブ機関紙「婦人民主新聞社」記者
1949年 同紙編集長
1962年~68年 婦人民主クラブ書記長
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今日は、その本の中に書いてある厚狭の町の様子の中から「裸坊」のことをご紹介します。

文中より一部分を抜粋。
「夜になると裸坊が出る。
十時の御神幸を守る男たちであるが、真っ白の上下のさらしをぐるぐる腹に巻いて、鉢巻をしている。
この連中が夕方から三人、五人、ワッショイワッショイと町に現れる。
近在近郷の若者たちに、よその町からわざわざ汽車に乗ってやってくる若者たちも交じって、暗くなるにつれて町はかけまわる白い男たちでいっぱいになるのだ。」(中略)

「鴨神社から下りてくる、この御神幸が祭りのヤマであり、人々はみな立ち出でて、柏手を打ってこの”おあじろ”を拝むのであったがこれがなかなか無事では済まないのであった。」
とあります。そういえばこのたびもこのお網代に手を合わせる方がいらっしゃいました。
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「この”おあじろ”昔は毎年打ちこわしをねらう目当ての店があり、それは大抵町の有力者や分限者と言われる家であった。
その家では出入りの者たちを裸坊にして 防衛にあたらせる。(中略)肉弾相打つ攻防が繰り広げられた。」
あちこち狙われた店は大変!ということで、裸坊取りやめの話が浮上。
「厚狭の名物の裸坊が取りやめとなると、そこは若者が黙ってない。
そんな折、「若いもんがあれだけやりたがっているのにそれを聞いてやらんと、不満が残っておさまりがつかんようになる」
「裸坊が名物で厚狭の天神が有名なのに、それをやめさせて祭りを寂れさせては、町の商工業発展のためにならんことになる」。
「絶対に悪さをさせん、”おあじろ”を突っ込むことはさせんから裸坊を出してくれ」
そういうわけで、それからの裸坊は今のおとなしい形になったということですが、
「やはり少しは気がもめないと面白くないものだ」とみんなが言ったそうです。
”だんじり”のように荒れ狂う裸坊を、一度で良いから見てみたいような気がします。(おっと、これは禁句でした)
以上で2014年の裸坊の記事は終わりです。
「ゆかりの人々」は厚狭図書館に置いてあります。
著者経歴
水沢耶奈(旧姓佐々木)
1905年(明治38年)山口県厚狭郡厚狭にに生まれる
1922年(大正11年)県立厚狭高等学校卒業
1926年 日本女子大学校国文科卒業
1928年(昭和3年) 水沢澄夫(美術評論家)と結婚
1947年 婦人民主クラブ機関紙「婦人民主新聞社」記者
1949年 同紙編集長
1962年~68年 婦人民主クラブ書記長
